今回はヴィクトール・フランクルの【夜の霧】を読んだ感想です
世の中には歴史に残る戦争本や戦争映画が沢山ありますが、
『自分が苦しいときに読み返したい』と思った戦争本はこの本が初めてです
強制収容所の日々を第三者的に語る
『夜と霧』(よるときり)は、1946年に出版されたヴィクトール・フランクルのナチスの強制収容所経験に基づいた書籍作品である。
Wikipediaより
著者は心理学者である経歴を活かして、アウシュビッツと関連する強制収容所の地獄の日々が人間の心と行動にどんな影響を与えたのか淡々と語ります
私が感じたのは、満州国演義(船戸与一著)で最後に出てきたソ連の強制収容所との対比です
当時たくさんの日本人がぶち込まれたソ連の強制収容所では酷い肉体労働を強いられるのは同じですが、共産主義思想に頭を入れ替えるための精神的な拷問がありました
夜の霧ではそういう思想教育みたいな描写がなくて、どちらかというとヒトではなく家畜のように扱われる悲惨さがありました
分りませんが、当時ドイツ軍としたらユダヤ人を絶滅させるホロコーストが主目的で思想を変えて同じ空気を吸うことも許されなかったのかもしれません
同じ人間として想像を絶します
一方で、満州や日本で当時の日本人が朝鮮人のことをヒト扱いしてなかった(中国人はまだヒト扱いしてた)こともおそらく事実です
日本人の自分の中には加害者と被害者の人格が同居しているような感覚が私にはあります
『人生』は生きる目的や意味を答えてはくれない
本文中で一番記憶に残ってるのがこの言葉です
コピーしたわけじゃないから正確には違うかもしれないですが、
強制収容所で先に死んでいく人の特徴として、『もう生きていても仕方ない』『もはや生きる意味がない』と言い始めたらヤバいそうです
そこで著者は、
『もう人生に生きる目的を尋ねるのはやめよう』と言います
人生はあなたの生きる目的の答えを持ってはいないし、尋ねても答えてくれない
逆にいつも生きる目的や意味を我々に問いかけてくるんだ
そしてその問いは常に具体的で、常に決断を促してくる
右に行くのか?左に行くのか?
進むのか?止まるのか?退がるのか?
生きる限り、その問いに答え続けるんだ、それが生きる意味であり、目的だ
と私は理解しました
この考えって、別にアウシュビッツに収容されなくても、生きている中で特にツラい時に思い出したい言葉です
私は専門家でもなんでもないですが、自殺を考える時って、
他者とのつながりが無かったり、生きる意味が見つからない、とかで絶望することが多いと思うんですよね
どれだけ追い詰められた時でも、人生は常にその人に寄り添っていて、答えは何もくれないけど、いつも問いかけてきているわけです
そんなふうに考えたら、少しは救いになるんちゃうかな
それにしても著者自身も妻も子供もガス室で殺されているにも関わらず冷静に発言できるところが、やはり心理学者なんですかね、自分なら想像もつきません
精神的に疲れた時に読みたくなる
読む前は、強制収容所やホロコーストの残虐な描写がもっとあって、読んだ後に暗い気分になる本だとばかり思ってました
広島の原爆ドームとか、火垂るの墓とかそんなイメージ
実際には逆でした、むしろ救われる気分がしました
前述した通り、文章が客観的で、残虐な描写よりもそこにいる人々の心理分析がメインのテーマとなっています
むしろ、しんどい時に読み返したい本でした
今回は図書館で借りたんだけど、、
やっぱり買おうかなー