1月17日は阪神大震災が発生した日です
当時わたしは阪神地区の震度7のど真ん中に住んでいました
地震発生時に子供ながら感じたことについて書いていきます
住んでいた地域は阪神地区で震度7
当時はまだ小学生の高学年でした
住んでいたのはまさに阪神地区で直下型が直撃したエリア
震度は7でした
幸いなことに、家は引っ越したばかりだったので外壁にヒビが入った程度で済みましたね
ただ外に出てみると、、
- 阪急電車の高架は横倒しになってるし、
- 当時通ってた塾は1階がペチャンコ、
- ビルは横倒しになってました
目の前の光景があまりに非現実すぎて、逆にパニックにならずに案外普通に受け入れていたような気がします
生き埋め状態から助け出された少年
近くの親戚の家もペチャンコで周囲の生き埋めになった人たちをおじさん、おばさんたちがなんとか助けようとしてました
当時はまだ小さくて、生き埋めの人を助ける大人たちを見ている事しかできませんでした
わたしが見ていたちょうどその時に、当時の私よりもまだ小さいくらいの少年が助け出されていて、グッタリしたまま大人に抱えられながら病院に運ばれていったのを覚えてます
周囲の大人たちが、
「頑張れよー!!」
と一生懸命呼びかけていたのも覚えてます
その後、彼がどうなったのかは分かりません
おそらくエリア的に同じ小学校に通っていた子だったと思います
小学校で同級生と再会したときの安堵感
地震の翌日に小学校に歩いて様子を見に行きました
まだ授業とかそんな話は全然なくて、避難してくる人をどうやって体育館で受け入れるかを先生とか役所の人たちが四苦八苦していたはずです
私は子供だったので実際には知りませんが。。
様子を見に行ったら、同じ学年の友達が何人か来ていました
「おー!!おまえら生きてたんかー!」
と言って、心底ホッとしたことを今でも覚えてます
知り合いと再会した時にそんな事を感じたのは、後にも先にもこの時だけです
その後は特にやることもないので、集まったメンバーで校庭でサッカーをしてました 笑
その校庭もしばらくすると仮設住宅でいっぱいになったのでサッカーは出来なくなりましたね
父親が見せたリーダーシップ
明け方に地震が起こった時、わたしは父親と一緒の部屋で寝ていました
当時、部屋を与えられていたのですが、夜に1人で寝るのが怖くて母親と部屋を代わってもらっていました
なので本来は母親が寝ていたベッドにわたしが寝ていました
ドーン!という揺れが始まった時、父親がわたしの方に覆いかぶさってきました
わたしも何が起こったのか分からず、必死に父親にしがみつきました
記憶にはないのですが父親曰く、
「お父さん!怖い!!」
って言ってたらしいです
それを聞いた父親は、
「ここでワシが死んでも、子供だけは守ろう」
と決意したらしいです
ただ被さってきた父親をすり抜けて落ちてきたティッシュ箱がわたしの額に当たって「イテッ!!」ってなったのも覚えてます
おい親父。。
守りきれてねーじゃねーか 笑
揺れがおさまってから、別の部屋で寝ていた母や姉、祖母の部屋の様子を父親は見に行きました
私は暗闇の中、1人残されたのですが、外ではサイレンが鳴り響いていてそれがめちゃくちゃ怖かった
サイレンというのは救急車とかじゃなくて、街のスピーカーから空襲警報みたいなのが鳴り響くんですね
「ウゥゥーーーー!!ウゥゥーーーー!!」
みたいな感じで、
なんか戦争でも起こったんかと錯覚しましたね
そして母親は寝続けた
上述した通り、当時母親はわたしの部屋で1人で寝ていました
グラグラ揺れはじめて
「あら〜、なんか普通じゃないことが起こってるわ〜」
って思ったらしいです
揺れがおさまって、まず思ったことは、
「寒っ!!」
だったらしい
それで、
「もうちょっと寝よ」
ってことで布団に潜り込んで二度寝しました(まじでありえない)
その後に父親が部屋に「大丈夫かー!!」って言いながら飛び込んできたのですが、
「んー?大丈夫ー。」
って答えたらしい
後でそれを聞いたわたしも姉も、「こいつはヒトじゃねーな。。」と唖然としました
地震は怖い。備えよ常に。
今回は”阪神大震災から25年!当時の被害状況について振り返る”について書きました。
あれから25年経って、当時子供だった私も子供を持つ親になりました
今同じような地震が起こった時には、父親が見せたリーダーシップを私も見せたいし、母親の鈍感力も逆に見習いたい 笑
日本という地震列島に住んでる限りは、心づもりは常に必要ですね
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